裏活玉!!! 

 

 

 

あーあ。見つかっちまったよ。はい。1万HIT記念です。
ここは、ほんとーに面白くも無い駄文を書いていくので、皆様期待しないでね。

 

 

 

 




・・#9月15日#・・ − 優しさ −





最近、「優しさ」について考えさせられるときがある。

 

優しさとは何なのか。
深く考える機会がある。
とてもいいことだ。

結論からいきなり言えば、優しさとは

 

「相手に幸せを感じさせる行動」

 

なんだと思う。
先日、知り合いの結婚式に出席して神父が言った。
「優しく接しなさい。優しさとは愛とも呼ばれる」
一つの形であるし、今僕が挙げた優しさの定義にも当てはまっていると思った。

 

相手に物をあげる
相手にお金をあげる
相手のために我慢する
相手のために走る
相手を許す

 

 

いろいろある。これらは基本的に優しさだと世の中では思われている。
僕は、違うと思う。優しさの絶対定義ではないと思う。
今挙げたようなものは「相手がそれを望んでいる」という前提があって初めて優しさになる。

たとえば全てにおいて我慢すれば、それが優しさになるとは限らない。
何も文句を言わなければ、それが優しさになるかと言われればそれも違う。

 

決まった何かをすれば、それは優しさ。

 

優しさっていうのは、そんな簡単なものじゃないし、そんな大変なことでもない。
「相手が望んでいることをする」ただそれだけのこと。それが最も難しいのだけれど。

彼女が悩みを打ち明け、それを彼が聞く。
よくある話。そして、解決策を彼が練り「そんなこと頼んでない!!!」とケンカが始まる。
彼女は聞いて欲しいだけで、彼はなんとか苦しむ彼女に解決策を与えてあげたい。
需要と供給がかみ合っていないということだ。
「彼女は、彼の解決策も聴く耳をもってあげましょう。彼は、彼女の言うことにもう少し耳を傾けましょう」
ケンカ両成敗といったところかな。
そこまででだいたい世間的には話は終わる。


けれど、僕はそれはいけないと思う。
もっと掘り下げるべきだ。
はっきり言ってしまえば、これは彼のほうに非があると思う。
なぜなら、図式がはっきりいているから。
困っているのは彼女で、助けたいのは彼。この時点ですでに二人は平等ではない。
彼女のほうが、精神的にツライ局面にいるのだから。

精神的に滅入ってる彼女に「彼のことを考えてあげて」というのは、特にその時点ではつらい状況でもない彼と比べて、明らかにハードルが高い。

この彼(あくまでもよくある話のであって実在ではないですよ)の行動や、態度は非常に高慢だと思う。
彼がやっているのは優しさではない。自己満足だけだし、自己顕示欲にも見える。優しさだったとしても、レベルの低いものだと思う。
彼女は「聞いて欲しい」と願っている。ならば、それに答えることこそ本当の優しさだと思う。
 

人の幸せというのは、人それぞれであって、故に本人にしか基本的にはわからない。
その人に幸せを感じさせたい。優しくしたいのであれば
まず始めに本人から「幸せ」についてその都度聞く姿勢が必要だと思う。
幸せというと、単位が大きいけどすごく単純に言えば「今、どうしたいのか」を聞く姿勢。

基本的に、人の気持ちなんてわからないもの。見えないのだから。
人は、目を持っていてそれに頼り、時に過信してしまう。
なんでも見えているつもりになってしまう。
けれど、世の中には圧倒的に見えてないことのほうが多い。
狭い範囲で考えても、友達、親、彼、彼女。一人一人が、色んな心をもっている。
一人一人がたくさんの人間と出会い、たくさんのものを見て、感じる。毎日だ。
美味しい、楽しい、むかつく、かわいい、きもちいい。スキ。嫌い。
一人一人が心に大きな自分なり世界を持っているということ。
その想い、その世界は、決して僕からは見えない。

僕が感じ取れるのは、その心の世界から外面に打ち出されたものだけだ。
言葉、態度、体調、表情。僕らが見えているのはほんの一部にすぎない。

だからこそ、過信してはいけないと思う。
相手から発せられた信号を受け取る事を怠ってはいけないと思う。
わからないのだから。相手のことは。

人が過ちを犯すとき。
たいていの場合「出来ないことをしようとした時」だと思う。
出来ることをしようとした時に過ちはほとんどない。
「相手のことをわかったつもり」になった時、間違いなく過ちは起きる。

 

相手に優しくしたいなら、相手の意思をドンドン聞くべきだと思う。
そして逆もある。
相手が自分の事を大切に思っていて、「優しくしたい」と思っていたとする。
そういう人に対して「自分はこうしたい」「これがスキ」「これは嫌い」と意思表示することも、優しさだと思う。

だから、世間では「ワガママ」な人を「優しくない人」とする向きがあるけれど、それも違うと思う。
自分の要求だけを言えばそれは優しくないのかもしれないけれど
単に好き嫌いの注文が多いだけなら、それも一つの優しさだと思うし
なんでもかんでも、自分の中にしまっている人も、ある種「優しくない人」だと思う。
前者は相手に「自分に優しくさせる権利」を与えているのに対して、後者は与えていないから。


優しさの定義としてよく語られるのは「自己満足であるかどうか」
こんな話が出るとたいてい「人間なんてすべて自己満足だよ」という反論が出る。
その通りだと思う。思うけれど、それは少し論点がズレているとも思う。
両者の語る「自己満足」の間には決定的な違いがある。

ある優しさの行為について「それは自己満足だよ」というのは
ただの自己満足ではなく自己満足「だけ」という意味が含まれる。
相手の幸せは伴ってないということ。

確かに、優しさも含め人間がする行動というのは全て自己満足だ。
「あの人に幸せになって欲しい」と願うことから起きる行動も、
それは自分がそう願っていてそれを実現させるため(その想いを満足させるため)に行動しているのだから否定は出来ない。

 

じゃあ、本当の優しさってなんなのか。

 

 

自分の自己満足が、しっかりと結果として相手のためになっていること

 

 

これが成立していて初めて、自己満足だけじゃない本当の優しさなんだと思う。
なにも物理的なことじゃない。物をあげて、それが相手のためになっていなくても、偽物の優しさだとは僕は思わない。
一生懸命自分のために、自分の事を考えてその物を選んでくれたのなら、それが伝わっているのなら、それは立派な優しさだ。
 

 

相手が、自分のことを大切にして欲しいと思っているのだから。

 

 

 

 

 

全く違う世界を持ち、完全にわかりあうことの無い人間。
決して人の心を見ることの出来ない人間。

 

 

そんな人と人とを強く繋ぐのは、『本当の優しさ』だと僕は思う。







・・#7月8日#・・ − 世界で一番好きな選手 −





僕の好きな選手。
僕が最も好きな選手。
代表復帰した。ネットで知ったので、画面を見て涙がでた。

 

名波 浩

 

ずっと。
ずっと待っていた。
彼の代表復帰を。
年齢的にはかなり苦しい。
右膝の状態もよくない。
そして、名波自身ももう代表には興味はないのだと思っていた。
だから、もうほとんど諦めていた。
ジュビロで、できるだけ長くプレーが見られればいいと思っていた。

 

名波はボランチの選手だ。
ずっと、トップ下や攻撃的MFでやってきた選手だった。
ただのテクニシャン。"ただの"ファンタジスタ系。だったのだが、
98’フランスW杯を目指す当時の代表監督、加茂周監督が、名波をボランチにコンバートした。
いま思えば、「ゾーンプレス」という戦術を日本に取り入れた事と同じくらい、
「ボランチ名波」を誕生させた事は加茂監督の最大の功績ではないかと、僕は思う。

 

その頃、僕は同じようにチームで前めのMFからボランチというポジションにコンバートされていた。
当時の僕にはボランチというのは「=守備的MF」というイメージしかなかった。ただ単に守備の人。
走り回って、ボールを奪って、安全に身近にパスを出す。地味なイメージ。
僕は、パスが好きだ。そんな選手がなんでディフェンシブハーフなのか。全くわからなかったし、そしてやりたくなかった。
 

実際にやってみると、これが思ってた以上にキツかった。

「走れ」
「スペースを埋めろ」
「バックラインに入れ」
「攻撃のフォローにあがれ」
「敵にプレッシャーをかけろ。動け、かけろ、あたれ」

攻撃に出れば、「あがるな」
カウンターを食らえば「走れ。戻れ」
FWやトップ下の選手は休んでいても、ボランチは攻撃失敗の直後でも全速力で走って戻らなきゃいけない。

 

はっきり言って、体も頭も休む暇がない。
そのボランチの仕事量の多さと、サッカー経験者ならわかると思うが、
慣れないポジションでのストレスや空回りによる疲労。
加えて、僕の当時の「ボランチ=守備的MF」という意識が離れず、僕は葛藤をしていた。

ただ、本来、ボランチというポジションはそういうものではない。
ボランチとはポルトガル語で「ハンドル」だとか「舵」「舵取り」を意味する。
攻撃時には中盤の底でゲームを組み立て、守備時には危険地帯を即座に見抜き、危険を未然に防ぐ。
そしていついかなる時もチームの「リスク」と「チャンス」についての管理を頭に入れておかなければならない。
戦術理解が、最も必要とされるポジションだ。
トップ下が「攻撃の司令塔」ならば、ボランチとは文字通り、チーム全体の司令塔だ。
そして、時代の流れによりトップ下に入る選手へのマークがきつくなったことが、
ボランチにもパスセンス、ゲームメイクの能力を求める発端となった、ということも付け加えておこうか。
現在は、監督がプロデューサーなら、トップ下がデザイナーで、ボランチはディレクターといったところだろうか。
つまり、「ボランチの位置にテクニックやパスセンス、戦術理解の高い選手を据える」というのは当然のことで
「世界の常識、日本の非常識」だった。

 

 

そして、当時。
名波も、ボランチにコンバートされた後の97’フランスW杯予選。苦しんでいた。
名波の場合は、純粋なボランチではなく、攻撃的MFとボランチの中間。
サッカーではFWから1列目、その後ろの攻撃的MF(トップ下)を2列目、その後ろに位置するボランチを3列目というが
当時の名波が要求されたのは「2.5列目」

「守備時には最終DFラインまで顔を出し、攻撃時には得点シーンにも絡め」

こういうことだったらしい。

 

「そんなの絶対に無理だ」

僕は本気でそう思った。自分もボランチというポジションを始めてみたからこその、考えだ。
前述のように、ただでさえ慣れないポジションというのは空回りしがちで、スタミナを無駄に浪費する。
その最中で、そんな莫大な仕事量こなせるわけがない。

案の定、名波は苦しみ、マスコミは敗戦、勝ちきれない原因を「ゴールを決めきれないカズ」についで名波としていた。

「運動量が少ない」

「スタミナ不足」

マスコミはこの論調で叩いていた。
本人はあれだけの多い仕事量を求められ、それをなんとかこなそうと走り回っていたのだから
当時のその世論、マスコミの論調は本当に苦しかったらしい。
あの当時を知っている人間ならわかると思うが、日本全国民が期待し、胸を躍らせ、そして敗戦。
そのストレスを日本代表チームにぶつける。
1億5000万のプレッシャーをたったの20人程度の選手が受ける。
一般人の感覚からすれば自殺してない方が不思議だ。
(それを考えると、たった19歳で日本の司令塔を務めた中田には、驚嘆させられるばかりだ)


しかし、そのボロボロの名波が変わった。
97年11月1日 ソウルでのアジア最終予選 vs韓国戦

開始早々から、名波の動きが違う。
「飛ばしすぎでは・・・」と思うほど、フィールド狭しと動き回っていた。
しかし、それまでとは何か違うものを名波から感じた。
今でも忘れないのだが、当時日本代表左サイドで息の合った相馬とのコンビ。
その相馬と、左サイト自陣深くでボールを奪取するシーンが見られた。

寒さからか顔を赤らめ、意気揚々と軽快に、しかし確実に敵を追い詰める名波がいた。
その試合早々、フィールド中央付近で名波は股抜きを見せている。

そして開始1分。
日本代表に待望の、敵地韓国での、そして悪い流れを断ち切る可能性を持つ先制点が生まれる。

フィールド中央付近で、中田から名波へタテのショートパスが繋がる。
フィールド中央でパスを受けた名波は、パッサー名波に全幅の信頼を置き、
左サイドを絶妙なタイミングで駆け上がる相馬に、これまた絶妙なロングパスを通す。
当時、解説を担当していた、「日本サッカー史に名を残す偉大なサイドバック(SB)」都並は
名波のサイドをえぐるロングパスを「パスを受けるサイドバックの立場から考えると、名波のあのパスはヨダレが出るほど美味しいパスなん ですよ」
なんて言っていた。
そして、 左サイド敵陣深くでボールを受けた相馬はグラウンダー(ゴロパス)でペナルティエリア中央へ折り返す。

 

まず、FWのカズがニアサイド(近いサイド。この場合向かって左サイド)に韓国DFを引き連れてよってくる。
そのカズはスルー(後ろに流す)。

カズの次には、すぐに2トップのもう一人FW呂比須も韓国DFを引き連れてよって来た。
しかし、その呂比須も左アウトサイドでボールの軌道を若干変えるのみで、スルー

日本の2トップがサイドへ流れスルーし、それに韓国DFも引っ張られ、ボールは
PA内ゴール前中央やや右寄り、無人のエリアへ転がる。

そこへ、一人の日本人選手が猛然と飛び込んできた。
普通2トップがサイドへ流れることによって出来たスペースに飛び込むのは、
FWのすぐ後ろに位置する、トップ下だ。
サッカーファンから敬愛の念を込めて”ファンタジスタ”と呼ばれる選手が入るポジションがトップ下であり、
彼らには鋭い得点感覚も備わっている。そのトップ下の選手が、味方FWによってポッカリ空いたスペースを
使えば、得点チャンスは格段に増える。

だからこそ、僕はその飛び込んできた選手を、一瞬だが中田かと思った。
しかし、中田ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

飛び込んできたのは、サッカーにおける最も偉大な背番号。
日本代表の出番号10。

 

 

 

 

 

 

名波 浩

 

 

 

 

 

飛び込んでフリーでボールを受けた名波は、きっちりと韓国ゴールにボールをねじ込んだ。
待望の先制点だ。

テレビの前で僕は大喜びをしたのは言うまでもないが、それ以上に画面の名波を見て驚いていた。

 

 

 

 

やってのけた。
この人はやってのけた。
 

 

 

 

 

 

ほんの少し前まで、DFラインに加わって守備をしていた人が。
中盤の繋ぎに参加し、ロングパスを出した人が。
ゴール前に飛び込んでゴールを決めた。
これだけの仕事を、この人は本当にやってのけた。

そしてその後も、試合終了まで名波の運動量が落ちることはなかった。
とうとう、一試合通して「2.5列目」をこの人はやってのけた。
驚きを通り越して、「この人は化け物か」と僕は思った。

その後、「2.5列目名波」が定着した日本は、ご存知の通りフランスワールドカップのアジア第3代表枠を手中におさめる事に なる。あの当時はずっと「中田、中田」という中田フィーバーだったが、僕は本気で名波がいたからこそ予選突破できたのだと思っ ている。
当時の中田は今と違い何をするかわからないという雰囲気をもった純粋なファンタジスタだった。
偉大な選手であるし、当時の力ももちろん凄かったが、代役がいなかったかと言えば、そうでもない。
そういうタイプの選手は今現在の日本代表やJを見ればわかるように、着実に育って来ていたし、
当時の中堅どころの選手にも優れた選手はいた。もちろん、中田に比べれば、スケールが小さくなるのは否めないが。

しかし、こと「2.5列目」を任せることのできる選手は当時の日本には名波以外考えられない。
それも、予選を通して体得した名波以外は。

 

その後、「2.5列目名波」は、忠実に守備をこなしつつ、積極的に攻撃にも参加し
「名波がどれだけ攻撃に絡めるかが、日本代表の調子のバロメーター」となる。

そして、フランスワールドカップ出場。

3戦全敗。

初戦アルゼンチン戦で、名波はオルテガのトラップミス(オルテガはスルーだと言っているがあれは絶対トラップミス)により
突如として、右足に(オルテガが触れなかったことにより)鋭い球威のボールが現れ、それをアルゼンチンFWバティストゥータ
の前にこぼしてしまう。バティストゥータはこれを難なく決めた。きっと、今でも名波はこの瞬間の光景を忘れていないと思う。

 

ワールドカップ後。
名波はイタリアへ渡る。
失敗だの成功だの言われているが、失敗ではなかったと思う。
大成功でもなかったけれど。


 

イタリアから帰国後、アジアカップ日本代表に名波は選出され、そしてこの大会でMVPを獲得する。
この大会の名波は本当に凄かった。イタリアに行って大きく変わったのが手に取るようにわかった。
まず、「2.5列目」ではなく、本物の「ボランチ」になっていた。
攻撃に全く参加しないということはないが、渡伊以前よりもう少し後ろ目を基本ポジションとしていた。
物理的に一本のドリブル、パスでチームに影響を与えるのではなく、
中盤の後ろ、チームのヘソ、重心となるところで動き、
むしろボールの無いところでの動きがチームに影響を与えていた。

 

そして、一番変わったこと。
それは守備。対人守備も上手くなったが(特にスライディング)、それ以上に早くなった。
危険地帯察知能力。

サッカーを見ていると、応援しているチームに失点のピンチが訪れると「ヒヤっ」とする場面があると思う。
誰でも、味方ゴール前で敵がフリーでボールを持てば冷や汗が出る。
これが、サッカーを長く見たり、実際にプレーするようなサッカーファンになってくると、
それがどんどん前の段階で冷や汗が出る。
たとえば、ゴール前にボールが入る前。トップ下の選手がスルーパスを出そうとする瞬間、とか。

そうやって突き詰めていくと、まさか「キーパーがボールを持ったら」まで戻ることはないわけで、
だいたい、サッカーファン一定のところで「危ない!!」と思う局面がある。

例えば、敵ボランチが前を向いて、キレイなトラップしやすいパスが敵FWに通った瞬間だとか。
または、敵ボランチが一人ドリブルでかわしてフリーになった瞬間とか。
次の展開が、ドンドン頭に浮かぶ。

敵ボランチが前を向く

    ↓

敵FWにきれいなパスが通る。

    ↓

敵FWはボールをキープする(パスがいいから、ボール(コントロール)が自分のものになりキープしやすい)

    ↓

敵トップ下にバックパス

    ↓

チーム一のテクニック、創造力を誇る敵トップ下=ファンタジスタがフリーで尚且つ前を向いてボールを受ける

    ↓

敵FWへ絶妙なスルーパスorがら空きのサイドへロングパスor強烈ミドルシュートorテクニカルなドリブル突破・・・

    ↓

無数に広がる敵の攻撃手段・・・

という具合に、頭の中で描き、敵FWにきれいなパスが通るという段階で恐怖する。
そういうココを抑えなければ危険だという局面がある。
とくに、ゲームをみていると、俯瞰で見れるのでプレーしているときより数段これが察知しやすい。

アジアカップでの名波はこれがすごかった。
「危ない!」と思った直後に、そこに必ず名波が現れる。
そこで攻撃を遅らせるなり、自分自身が潰れることで、危険を未然に防ぐ。
これが本当に、ものの見事にその局面局面に現れては、危険を潰し、日本代表に安定をもたらす。
これは名波本人も言っていた事だが、非常に早くなった。
もちろん、単純な足の速さじゃない。名波は足は遅い。
判断の早さだ。イタリアに行って、これが数段アップしたようだった。
コンマ何秒の差なのだろうが、判断が早い。
おかげで、人より先にボールに触れられる。
以前は敵と体で競っていたタイミングのこぼれ球を、判断が早いおかげで、自分のものにできる。
この判断速度の向上によってもう一つ、得たもの。
 

試合の流れを読む力

この人は、これが本当に優れている。
だから、危険地帯が予測できる。
相手の攻撃を先回りして、要所要所で潰せるのだろう。

 

 

結局、アジアカップ後、名波は怪我で代表を外れ、2002年ワールドカップには出られなかった。
なんとか、間に合ってはいた。
ただ、トルシエが名波をベンチに置くことを嫌った。
アジアカップ以来、トルシエは「名波はビッグだ」と言っていたらしい。
偉大な選手だから、ベンチに置くことでチームへの悪影響を懸念したらしい。
山本コーチは「名波は、イタリアでの経験もあるし、前回のワールドカップ本戦、予選を経験してきた選手だから、それは心配ないよ。チー ムにとって何らかの形で貢献してくれるよ」と助言したらしいが、届かなかったようだ。
名波がワールドカップ代表から落選すると、サッカーマガジンでは

 

「トルシエジャパンは組織的で強固な守備と引き換えに、流れるようなオートマティズムとクリエイティブなチームを失った」

 

と書いた。
名波は「60%の組織と、30%の個性、そして運」というトルシエのサッカーを最も体現した選手だった。
トルシエのサッカーは型にはめるサッカー。
それに日本代表の選手は苦しんできた節がある。
それを名波は「適度に」リスクを置かすことで「30%の個性」を引き出し、同時に抜群のバランスを保った。
トルシエはリスクを冒すのを非常に嫌う監督であるが、何も全てが全てではない。
「30%の個性」とはリスクそのものだ。
オートマティズムの流れの中で、要所要所で個人の力を発揮するべきだということ。
中田が嫌われ、名波がトルシエに好かれる理由はそこにある。
名波はもうファンタジスタではない。
中田のように「自分でなんとかしよう」という意識を持った人ではない。
中田のようにボールをキープすることはない。
だから、トルシエの戦術、オートマティズムが名波によって止まる事はない。
 

本当に凄い選手だと、思う。
当時、中村俊輔はトップ下の選手であるにもかかわらず左サイドハーフをやらされていた。
そのことに俊輔はずっと苦しんでいた。
本来のポジションを任せてもらえない悔しさ、本来のポジションではないところでマスコミに批判される憤り。
それを見た名波は、ボランチに入ったときに、俊輔に進言する。

 

「中へ入れ」

 

ポジションチェンジ。
常に、ではない。流れの中で自然に。
俊輔が中に入った時は、名波は外に開く。
俊輔があがれば、その穴を名波が埋める。

「名波さんなら、俺の後ろをカバーしてくれる。攻撃にいける」

その想いが俊輔を生き生きとさせる。
俊輔は後にこう語っている

「名波さんがいるなら、左サイドでもいい」

俊輔に限ったことではない。
誰が相手でもそう。
チームが必要とするならば、ヨゴレ役も厭わない。
どうすれば、チームが機能するか。
味方が活きるか。常にソレを考えている人だ。
それが名波という人だ。
全ては、「やってる人も見ている人も楽しいサッカー」をするため。
「より多くの味方が同じ絵を描けたら、それが楽しい」と名波は言っている。
その為に必要なのは意志の疎通であり信頼だ。


決して多くを語る選手ではない。
ゴンやラモスのように闘志を全面に出して、味方を鼓舞する選手でもない。
中心で脚光を浴びる花形選手でもない。
「俺は主役じゃなくていい」そういう人だ。

態度で、プレーで、ポジショニングで、一つのパスで「信頼」という言葉が語れる選手。
そして、頭脳に備わった試合を読むコンピュータで試合をコントロールできる選手。
チームの司令塔であると同時に、味方の、チームの潤滑油となれる選手。

 

一流の黒子

 

それが名波を最も適切に表現しているのかもしれない。

何も、名波が完全無欠のフットボーラーだというわけではない。
足は遅いし、フィジカルだって強くない。
トップ下をやらせても、きっと大きな事が出来る選手ではないと思う。
突破力がない。
2トップの後ろに据えられても出来ることは限られてきてしまう選手だ。
攻撃だけに目をむければ、いまや中田、小野、中村などには叶わないと思う。
ボールコントロール、パスの精度なども今や小野や中村の方が上だと思う。
ただ、ボランチやらせれば、まだまだ名波の方が上だと思う。
上記の二人ほどのテクニックはないけれど、その二人にはない力が名波にはある。
 

試合を読む力。
危険を察知する力。
周りに気を配り、活かす力。
そのためにはヨゴレ役も厭わない心。

そして、持って生まれたパスセンスとテクニック。

 

 

 

キリンカップ現代表からは結局外れてしまった。
この後、アジアカップに出れるか、それはわからない。
現代表の現状は、連携が乏しくガチガチに固まったノロいサッカー。
それが、たった一人選手が入ったぐらいでよくなるとは到底思えない。
けれど、もう一人の僕が、心のどこかで期待している。

 

名波なら、なんとかしてくれるんじゃないか

 

チームの潤滑油となり、連携の橋渡しをし、チームをいい方向へむかわせてくれるのではないか。
淡い期待だが、どうしても期待してしまう。

 

この人は、本当に楽しそうにサッカーをする。
本当に、カッコイイと思う。
僕は、この人にボランチの楽しさ・重要性を教えてもらった。
僕は、この人にサッカーの奥深さ、楽しさを教えてもらった。
この人に出会えなければ、ここまでサッカーを楽しむこともなかったと思う。

これから、そう遠くない未来に引退する時期がくると思う。
けれど僕は、この選手に出会えたことを一生忘れない。

 

 

名波 浩という1フットボーラーを、僕は一生忘れない。







・・#6月14日#・・ − 子供 −





どうやら、こちらを見ている方もいらっしゃるようで。
ありがたいという思いと、めったに更新しないので申し訳ないという気持ちです。

今日は、何から書いていいかわからない。
何からとっかかっていいかわからない。

ともかく。
今に始まったことではないのだけれど、目を覆いたくなるような犯罪が増えている。
もう、ここまで書けばわかったと思うけれども、小6女児殺害事件。

 

 

 

悲しくて仕方が無い。

 

 

 

それに伴うマスコミ、そして流される世論にも悲しい。加害女児。
この表現はやめようと思う。
あまりに攻撃的だ。
加害者。または加害者の女の子。これで充分だと思う

 

「加害女児はインターネットをしていた。」
「加害女児はチャットをしていた。」
「加害女児はインターネット上の御手洗さんカキコミに激怒し、殺害を決意した。」
「加害女児はバトルロワイアルを見ていた。」
「加害女児はカッターで後ろから刺した。」
「バトルロワイアルにも後ろからカッターで刺すシーンがある。」
「テレビ番組の特番ドラマ(ミステリー)でカッターで人を殺すシーンがあり、女児はそれをみてカッターでの殺害決意した。」

 

 

 

「原因はインターネットであり、チャットであり、バトルロワイアルであり、サスペンスドラマだ」
マスコミはそう言いたいかのように情報を流し、世論もその方へ動いている。
本当にそう思っているのだろうか?
本当にそれで解決するのだろうか?
犯人を一つのものにしたいだけではないのだろうか?
そこに、わからないストレス、恐怖のストレスをぶつけているだけなのではないだろうか?
実は、僕は以前にもこの手の事件について調べた事がある。

 

 

いくつも、出てきた。

 

 

そのどれも、全てが原因を「ゲームや映画等の過激な表現をしたマルチメディア」としていた。
たとえば、少年犯罪の著書にいくつも書いてあったうちの一つ。
ある少年が他人に暴行を加え、その際に金属バットなど複数の武器を選別し、そして仲間を募った。
著書は、その原因そして傾向が「ドラゴンクエスト」そのものだと言う。

 

「ドラゴンクエストのゲーム内では主人公はキャラクターや用途により武器を選び、仲間を連れて徒党を組んで、暴力を振るう」

 

こんな事が書いてあった。
僕は、それを読んで笑った。
呆れると同時に。
ドラゴンクエストを遊んだ子供たちの多くが、そういった残虐な人間に育つというのだろうか。
当時、ゲームをやった人間ならわかると思う。

 

「子供はそんなにバカじゃない」

 

 

問題の挿げ替え、責任転嫁にしか僕には見えない。
子供が、ゲームや映画を真似た事。
大事なのは、そこではないはずだ。
大事なのは、子供が自己を抑えられず、衝動にかられ残虐な行為をしてしまうことにあるはずだ。

仮に、ゲームや映画、インターネットなどの残虐な表現をしたものを子供から排除したとする。
世の中で、それらが完璧に消せることがあるだろうか?
ドラクエを潰し、バトルロワイアルの様なを作品を責め、インターネットを子供から排除する。
そうすれば、子供は被害者にも加害者にもならずにすむ?
僕は、そうは思わない。
それらようなものがなくなったって、息の詰まった酸欠状態の子供は、きっと何か他の題材を持ってくると思う。

マリオは谷に落ちれば死ぬし、火を投げれば相手は死ぬ。
ロードランナーは敵を地面に埋めるし、ルパンは銃を撃つのだから。
突き詰めていけば、ドラクエの影響だと言われる事件も
「目的のために、手段を選び、仲間をつのり、達成の道のりを歩む」
ということだ。決して悪いことではない。
問題なのは、その目的自体だ。

 

子供たちは、悲鳴を上げているのだと、僕は思う。
日本という社会に。親に。教育に。世間に。
この国は、とてつもなくおかしな国だ。
かけっこが遅い子は責めないくせに、勉強が出来ない子は責める。
本来、どちらも立派な個性であるはずなのに。
通り一辺倒な評価を全ての子に下す世の中に、子供の心は圧力をかけられている。

そして、その社会をなぞるかのように、
幼稚園から熟に通わせ、成績のいい子を「全てに優秀な子」とし、
その方面にのみ競わせる。
いい高校、いい大学、いい就職。
高い学歴をずっと目指し続け、医者になったはいいが、人と接するのが苦手だったなんて話を聞いたことがある。
「ともかく、学歴さえよければいい。」
世の中、そんなに甘くもないし、厳しくもない。
 

責任をインターネットやゲームなどのメディアに押し付けるというのは
ワラを一本一本のせられたラクダがつぶれ、
その最後の一本に全ての原因を押し付けているようなものだと、僕は思う。

 

佐世保の加害者の女の子はこう言ったらしい。

「比較しないで。それぞれ個性があるのだから・・・」

日記にはこう書いている。

「長い棒短い棒太い棒いろいろあっていい」

 

はっきり言ってしまえば「比較しないで」というのは無理な話だ。
人間の個性というものは比較で成り立っている相対的なものだから。
「長い棒」があるのはそこに「短い棒」があるからこそなわけで、
もっと長い棒があったら、途端にその形容詞は逆転する。
何本も、棒があって「一番長い棒」があるのは、それより短い棒が他にたくさんあるから。
「足の速い子」は「足の遅い子」がいるからそう呼ばれる。

人間の評価なんてものは全てが比較で成り立っている。
だからこそ、いま子供たちが悲鳴をあげているのは比較されるからじゃない。
比較される物差しが一つしかないからだと、僕は思う。
そして、全ての子がそのたった一つの物差しに適合するように育てられるから、
子供は悲鳴をあげてしまう。

 

子供たちを、被害者にも加害者にもしないために。
教育の仕方、接し方、いろいろあると思う。
けれど、変わらないものがあると僕は思う。

 

「人を愛すること」

 

「言われなくても子供の事は愛している」
と言われそうだけど、そうじゃなくて。
ありのままのその人を愛して欲しい。
勉強が出来なくたっていい。
運動が出来なくてもいい。
音痴だっていい。
太ってたっていい。
否定するのではなく、ありのままのその人を、その子を愛してほしい。

 

僕は、小学生時代。束縛されてきた。
これでもか、これでもかというほど束縛されてきた。
小学生だというのに、自由に遊ばせてもらったという記憶は微塵もない。
家に帰るのが怖くて仕方なかった。
毎日、父の顔を伺い、ちょっと真面目な顔をしていると、怒っているのだと思っていた。
家は、地獄だった。
今でも、あの時に戻りたいとは思わない。
 

でも。

「父が僕のことを愛していなかった」とは思わなかった。
そんな発想すらなかった。
キャッチボールもしたし、幾度と無く遊びにもつれていってもらった。思い出はたくさんくれた。
父が、僕のことを認めてないとも思わなかった。
僕が、そこそこの成績を収められていたのもあったのかもしれないけど。
とても頭の固い人で、学歴だけで成り上がってきた人だから、
僕にもそうしたかったらしい。
むしろ、自分よりもっと高学歴を得ることで幸せになって欲しかったんだとも、思う。
 

父の評価の物差しは、学歴に偏っていた。
だから、僕を束縛した。その価値観、教育方法が正しいとは思わない。
けれど、父も、「親」を務めるのは初めてだったのだから仕方ない。
その価値観を持った父でも、僕のことを真っ向から否定するという事はなかった。
幾度と無くケンカもした。
父は、ちゃんと向き合ってくれた。
頑固で、自分の目標、意思を貫き通したい僕と、ちゃんとケンカをしてくれた。
悪いこともたくさんした。
一歩間違えば警察沙汰にもなりかねないこともした。
父は、見捨てなかった。
何度も、僕は裏切ったと思う。
約束して、裏切って。
それでも父は僕の全てを否定はしなかった。
父は、愛していてくれていたと、僕は思う。
今も、そうだと思う。

 

人は、愛されることで変わると思う。
そう、思いたい。
時には、否定をしなければいけないと思う。
けれど、それは次のステップでいい。
まず、認めること、愛することから始まる世の中であって欲しい。
 

「自分の生んだ子を、生まれたばかりの乳児を母親が二年も冷凍庫に保管してた」
 

というニュースを見た。
愛していれば、そんなことはしないと思う。
子供たちが、小さな体に抱え込んでいる闇は、
認めてもらえないこと、本当の意味で愛してもらえないことから、来てるのだと思う。


親子に限ったことでなく、恋人、友達、他人。
愛するというのは、単純に男女の話でもなく。
この下の文章で、「物差しは一つじゃない。キミはキミでいいんだ」と書いた。
そう思うためには、相手にそう思わせるためには、
相手に、彼に、あの人に、最愛のキミに、
僕が、自分が、その専用の物差しを持っていることを見せることが必要だと、
僕は常々思う。

 

 

愛することで、その物差しは相手に伝わると思う。
愛することで、きっと人は幸せになれる。
愛することで、きっと大きな不幸は減ると思う。
愛されることで、人はきっと最後の局面を乗り越えられる。
愛されることで、人はきっと大事なものを見つけれらる。

 

 

甘々の持論だというのはわかってる。

 

でも、それでも僕は願いたい。

世界中の人々が身近な人を、そしてたくさんの人を愛せば、こんな世の中だって変わると思う。

 

たくさんの大人に愛されれば、子供はきっといい大人になる。

 

そして、こうも願いたい。

人はきっと、必ず誰かに愛されている。







・・#5月6日#・・ − 生きること −





「自分は何者であるのか?」



この手の問いに自問自答している人がいる。
人は、一生その問いと戦い続けていくものなのかもしれない。
でも、僕はやっぱりそうは思わない部分の方が大きい。
「自分は何者であるのか?」
との問いに対する僕の答えはいつも同じ。



「何者でもないさ」
自分以上でもなければ自分以下でもない。僕は僕だ。それ以外の何者でもない。




「何者であるのか?」という問いはつまりは、自分の存在意義を計るものであり
「なんのために生きているのか」ということだ。「生きることの意味」にもつながるかもしれない。
少なくとも、僕にそんな大層なものは無いし欲しくも無い。
生きることの意味なんて僕にはないし、何かのために生きるつもりもない。
強いて言えば「僕のため」。



そもそも、「何かのため」に生まれること自体ありえないと思っている。
僕が生まれたのは、両親が愛し合ったからであり、両親が「子供が欲しい」と思ってくれたから生まれた。
それ以外の理由などどこにも無い。
だから、「何かのために生きる」ことは僕には耐えられない。
自分以外の何者かに成れと言われても困る。
僕の人生において僕の意志が最優先されなくなるからだ。
例えば「親のために生まれた」となれば、「親のため」というのを最優先しなければならなくなる。
自分の意思で「親のために生きたい」と思うのは、それは突き詰めれば自分の意思で自分のために生きているのだからコレには当てはまらない
それでも、僕も含め人は「自分が何者であるのか」という問いに悩まされる。
人間とは本来弱い生き物だからなのか、自分の存在意義を、自分の価値を見出したくなる。


確かに、世の中全てのモノに価値は存在する。
ただ、人間にだけはは存在しない。
なぜなら、価値というものは人間が作り出した物差しだから。
「人間が、自ずから作り出したモノの存在意義を計るための物差し」これが価値。
人間が作り出した物差しで、「人間の価値」など計れるわけも無い。存在しないのだから。



もちろん、ある一定の物差しで計ることは出来る。
スポーツ選手だとか、学者だとか。
しかし、それもある一方向から見たものに過ぎない。
人間そのものの存在意義を計るものではなく、「その世界での存在意義」を計るものだ。



生きることに理由など無いし、本来は必要も無い。
僕は生きたいから生きるだけだ。生きることが楽しいから生きるだけだ。
こう言うとネガティブな人だと思われがちだが、死にたくなったら死ぬだけだ。
だから、生きている以上全ての責任は自分にある。
しかし、こと僕に関して言えばそう思えるからこそ、生きることを楽しめる。
その基本概念があるからこそ、僕は本当に自由に生きることが出来る。自由には責任が伴うものとして。



「自分が何者であるのか」
なんて悩む必要は無いと僕は思う。
社会の中で決まった「何者か」になる必要などどこにもない。
僕は僕でいいし、彼は彼、キミはキミでいい。
中田である必要は無いし、イチローである必要も無い。


彼より中田が優れているということも無いし、イチローより僕が優れているということも無い。
(もちろん、サッカーに関して言えば中田は人より何十倍も優れているし、野球のイチローもしかり)


それでも人は社会や組織、人間関係の中でいくつもの物差しに晒され自分の存在意義を探してしまう。
もちろん、生きている以上、社会や環境、組織、なんらかの物差しに適合できなければいけない。
それでも、その物差しですら自分で選ぶものだ。だからこそ基本的なベースはそこに置きたいと思う。


世間に乱れ溢れた物差しに苛まれ、自分の価値に悩んだときに、
自分にも自分以外の人にも言える人でありたいと思う。



「人間に価値なんて存在しない。キミはキミでいいのさ」と。





・・#4月5日#・・ −親 −





先日、いかりや長介さんが亡くなった。非常に残念だ。正直、ドリフの笑いはそんなに好きではな い。ベタなのはどうも。万人ウケはするけど、衝撃的な笑い はそこにはない。
僕は笑いの観点から いけば島田紳助さんが好きだ。あの人は 本当に頭がキレる。すごい人だ。でも、そんな僕でも、い かりやさんはやっぱ りすごい人だと思うわけで、本当に残念だ。それに、笑い以外でもあの人の演 技が僕は大好きだった。いくつもの名演技を見せてくれた。

そして、あのミスターこと長嶋さんも倒れた。偉大な人だ。何の皮肉か「日本の 長さん」が相次い で倒れた事になる。

そんなニュースを耳にすると、必ず頭をよぎることがある。「親の死」だ。 必ず、親も死ぬ。親の幸せのためには、親は先に死ぬはずでもある。最近、本当 にそれを覚悟する ようになった。もちろん、両親ともに今は健康だ。けれど死期がが わからないのは今も昔も変わらないが 、それでも期限が迫っているのはわか る。

「親の死への感覚」というのも少し適切ではないのかもしれない。「人の死に敏 感になった」というのが適切だろうか。

 

20歳を過ぎた頃。親の離婚により精神的に凹み「自分の居場所が無い」という人が知り合いにい た。AZ(仮名:女)。
知り合いというのはちょっと嘘かな。当時は彼女だった。AZは僕と同じ歳だ。僕はそれが信じられなかった。小学生や中学生ならまだわかる。成人した人間でもそう思うのか、と。その彼女のご両親は、ほとんど別居状態だった。そして、そのAZは実母の「恋愛をしているかのようなメール」を見てしまって凹んでいた。
周りの友達は、彼女に優しい言葉をかけた。本人がツライ時なのだから当然だろ う。「お前もそうするべきだ」と僕は言われた。正論だ。むしろ僕は彼氏なのだから、より優しく接するべきだった と思う。でも、僕には出来なかった。

僕は、自分の両親の事を「世界一の親」だと本気で思っている。それは僕の価値観のランキングによるものなのだから当然だ。ともかく、そういう意識もあっ て、高校在学時あたりから僕は両親には幸せになって欲しいと願っていた。 だから、彼女が信じられなかった。彼女の両親はもうずっと以前から別居状態だった。大変だったと思う。それでも、彼女のお母さんは気さくな人という印象が強い。そのお母さんが恋愛をしてい た。僕は実はその時ちょっとホッとした。彼女のお母さんも安らぐ所があったんだと。しかし、彼女はそれを否定した。

当時、彼女はお母さんの束縛に文句を言っていた。女の子なのだから、ある程度 の束縛は仕方ない が、お母さんも彼氏である僕と一緒にいるのは知っている。 「ならばそこまで怒ることはないじゃ ないか」とAZは言っていた。僕は決 まって「俺がまだまだ信用されて無いんだね」と言っていた。彼女は「そんなことない。あのお母さんはそういう感覚で怒ってるんじゃないんだよ」と言って くれていた。 そんな二人に起こった騒動だった。

僕は「お母さんにだって、恋愛する権利はある さ。今だって、お父さんとは別居状態だし。お母さんだって女なんだからさび しいよそれは」と言った。AZはそれでも嘆き「居場所がなくなった」と泣いた。僕はその言葉に憤りを感じた。僕だって今よりもっと未熟だったから。「居場 所がない」と言われた時、ツライのは彼女であるにもかかわらず、その言葉に反応してしまった。正直、苦しかった。自分は彼女の居場所にはなり得ないのを思い知らされて。 僕は「でも、そんな事を言ってたら、お母さんがAZと俺の事に文句を言っても 言い返せないことになるよ?」と言った。AZは「だって、親は親じゃ ん!!!!」と吐き捨てた。僕はその言葉で 、だいぶ理解できたような気がし た。傷つきつつも。彼女の心は、守ってくれるお母さんの中から 僕に会いに来 ていたということだった。平たく言えば「親離れ出来ていない」ということだろ うか 。お母さんが束縛するのも当然だ。彼女はお母さんにとっては「まだ子 供」なのだから。

そして、その当時僕は親のことをどう捉えていたのかと言うと。「親は人間だ」と捉えていた。もとい、それは小学生の頃からであるが。 ウチはスパルタだった。表の日記にも書いたが、それこそひどかった。父は、勉強しかしてこなかったタイプで、友達も少ない。人と接するのは本当に 苦手な人だ。そう いう人がエリートとなり親になるとどうなるか。答えは「自 分が正解だ」。

世間にそういう人はたくさんいる。僕だってそっちの部類の人間だ。信念だとか言うものを大事にする。人の話はもちろん聞くが。父は本当に勉強しかしてこ なかった人だ。明らかに経験値の低い人が親となり相手は子供。子の言うことなど聞くわけも無い。小学生に毎日5時間〜6時間の勉強 を課し、「みんなそ れぐらいやっている」と言ってのけるという話を聞けば、父の当時の視野の狭さがわかってもらえるだろうか。 そんな両親だったので、「親は見えてないものだらけだ。神でもなんでも無い。 自分と同じ人間だ 」とずっと意識するようになった。

しかし、それも僕の年齢が増えていくに連れ関係も逆転してくる。元来、僕は自分の信念を持つ人 間であったし。その上、視野の狭い人間が、他人の世界において中々説得できるはずはない。僕は中学にもなれば一端の事を言うようになり、そして散々束縛した両親に歯向かうように「自分の道 ・意思」を探すようになった。

高校も中ごろになると、もう僕と両親はほとんどケンカをすることもなかった。僕は自分の道を探し、両親はそれを見守るという関係になったから だ。だから、人よ り早くに親とぶつかったせいで、親との関係が修復するのも人より早かったのだと思う。 高校を卒業する頃には「親は、もう僕のことは気にかけてくれなくいい。自分の幸せを第一に考え て欲しい。僕ではなく両親が、夫婦がお互いのことを大事にしてほしい。子や親は選べないけど、 夫婦は選んだ相手なのだから」と思っていた。結局、その思いは今も変わらないことになるのだが 。

そんな思いを抱いてた自分だったので、AZのように無意識に「親は子供の幸せ を優先すべき」と いうような認識の人が、また僕は受け入れられなかった。 そして、同時に「恐ろしい」とも思った。世の中、悲しいニュースばかりだ。戦争が起きたり、テロがあったり。日本でだって、彼女が彼氏のバスケの試合を 初めて見に行くというなんてことはない日常の、しかしその二人にとっては一 つの幸せな時間が、通り魔の殺人によって、一生消えるこ との無い傷となるなんて事件もある。本当にやるせない。悲しくてしょうがない。そんな事に比べ たら「両親の離婚」なんて僕には大したことではない。

今だってそのときだって、離婚したければすればいいと思っている。それが二人の幸せなのだから。 僕にとって、両親とは「親」であり、成人した僕にとって、その二人が「夫 婦」である必要はもう無い。 「ほんとに悲しい事件だね」なんてニュースを見ていた者が、両親の離婚でこの世の終わりのような心境になった事が、僕は本当に怖かった。「人間なんて、所詮他人のことはどうでもいいのさ」 という認めたくはない認識が迫ってきたから。今考えれば、それも一つの正解ではあるのだが。

そして、僕は彼女と距離を置いた。自分も一杯いっぱいになっていたから。それを告げた夜。僕は友人達と飲み、AZは一番仲の良い男友達と飲んだ。AZは 僕に電話をしてきた。今から会いたい と。僕は拒否した。それでも彼女は店の 外に出ていた。心配になって探しに行った。彼女は繁華街の道のど真ん中で寝 ていた。周りにたくさんの男がいるというのに・・・・。僕はそれにも傷つい てしまった。

 

AZは、とても天真爛漫な子で男友達も多くいるような子だった。男友達の方 も"同性の友達"と して扱うような子だ。そして、飲めば記憶がなくなること も多々あった。彼氏としてはもちろん心 配だ。しかし、だからといってその部 分で束縛するわけにはいかない。それが彼女の長所なわけだ から。そこで約束 をした。 「キミの体や安全は君自身で守れ。それが出来ないなら飲みに行くときの僕の心 配に僕はとても耐 えられない。だから、自分の身は自分で守れ。もしなんか あったらその時は知らない。そのかわり 、思う存分楽しんできていいよ」 と。彼女は喜んで約束した。

 

その彼女が繁華街の道ど真ん中で寝ている。さすが にショックだった 。結局、彼女の親騒動が引き金となり、その後のイザコザで僕らは別れた。 それからしばらく、僕は「彼女が苦しいときに捨てた最低男」とレッテルを貼ら れた。特に女の子 はその態度が顕著だった。その時僕を支えてくれたのは男友 達と、理解あるいごく少数の女友達だ った。「ツライのは相手だけじゃない」 というのを理解してくれてもいたし、男友達は基本的に対 異性の話なのでそこ まで気にしない。ものすごい見幕で僕を責める男友達もいたけど。 そして何より、いつも同じ姿勢で変わらずいた両親にも助けられた。両親は事の 経緯は全く知らな いが、それでも毎日同じ環境を整えてくれることに感謝した。

 

振り返って見れば、僕も僕でいまよりもっと、かなり未熟だった。彼女がつらい時期だったのだから、とりあえず僕の不安は後に解決するとして彼女を支える べきだったと思う。

それでも、あの時も今も、常に全力投球の姿勢は崩さない人間なの で、後悔は無い。あの当時の僕にはあれが精一杯だった。 精一杯やった結果の敗戦と言うべきだろうか。そこから長い年月をかけ、敗戦から知ることのできた経験により、僕は成長した。今もしあの当時と同じ状況に 陥ったとしても、もっと上手く対処で きると思う。

 

失敗を恐れず、失敗から学 び成長したいという姿勢。それはこれからも変わらないだ ろう。 だから、今僕は思う。常に隣にいてくれたAZに、僕は感謝の気持ちで一杯だ。 全力でぶつかってきて、結局僕らの歴史はそこで止まってしまったけれども、 だからこそ僕は成長できた。今の僕がある。 彼女は今、ステキな人を見つけ同棲を始めたらしい。 今でもたまに、友人に言われる。「戻る気はないの?」と。これはもう本当に無 い。 現時点で僕は彼女を好きにはならない。特に会いたいとも思わないのだから。

 

それでも、今AZが幸せな生活を送っているのならそれは嬉しい気もする。 そしてなにより、彼女にはありがとうという言葉しか出てこない。本当に。

 

 

「大事なことは変わることであり変わらないこと」

 

 

今、本当にそう思う。矛盾なのだけれど。いくつもの出会いや経験で変わること の出来た僕の、変わらない思いだ。

そして変わらない想いの一つはもう本当に変わることはないと思う。
それは、両親にはもう何も望むことは無い。唯一、ただただ、幸せに長生きして 欲しい。 この前それを両親に言った。そして、

 

「離婚したければそれも一向に構わない。ただし、再婚したとしてその相手を僕 は"父さん"や" 母さん"と呼ぶつもりは無いよ。僕にとって父さんはこの人 であり、母さんはこの人。それは離婚 しようが、世界が破滅しようが変わらな いし、変える気もない。再婚相手をうまくやっていくこと はもちろん努力する けどね。でもそれは父さんの選んだ奥さんとして、だから。」

 

と言った。両親は二人とも笑いながら頷いていた。 しがらみや無駄な固執を嫌う僕らしい発言だと思ったのだろう。 本当に、もう望むことなど無い。出来る限り長生きして、そしていつか生まれる 孫をかわいがって欲しい。本当にそれだけだ。

 

親孝行という名の終わりなきの旅を少しでも長く、楽しみながら歩きたい。





・・#4月3日#・・ −一般人の見解 −





どうしても解せないことがある。

本当に、よくわからない。憤りを感じている。

皆さんは、今サッカー日本代表を思い浮かべただろうか。

僕がサッカーファンであるからそれも当然。

でも、違う。

 

 

田中元外相の長女の記事だ。

週間文○販売停止。

 

 

はっきり言って信じられない。

高裁で決定が覆った。

テレビを初めとするマスコミ関係者の発言も全て「よかった」という結論に至ってる。

僕ら一般人の感覚はやはり甘いのだろうか??

 

まず、改めて疑問を感じずにいられないのは、テレビなどで意見する「著名人」達の発言だ。

熟知したかのような態度で「この手の問題は・・・・」と語っている。

熟知はしているだろう。ただまるで、専門家が中立の立場、又は視聴者がこの問題を享受する為の媒体となる人物と意識してお茶の間に発言している。

 

 

 

彼らは自ら疑問に思わないのだろうか????

 

 

 

 

アンタらもそっち側の人間なんだってば。

 

 

 

 

私人VSマスコミ

の問題であるのに、まるで総論かのようにマスコミが語ってどうする。

それならば、インタラクティブな番組が実現している現在。電話調査や、街頭調査を積極的に行うべきであろう。

 

 

 

マスコミもマスコミだ。

自分で言ってて恥ずかしくならないのだろうか?

 

 

「表現の自由の危機だ」

 

 

 

などとぬかしているが、

 

 

 

 

他人(私人)の離婚話をするのがアンタらの表現の自由なのか?

 

 

 

 

それが仮に表現の自由だったとしよう。

自分の意志、思想を発する自由なのだからそれも強ち否定は出来ないのかもしれない。

ただ、お忘れではないか?

アンタらは、一般人に本を売っている人達なのだ。

読者の評価というものには、かなり神経を使うべき人間達なのであろう?

 

 

 

私人の離婚話ごときで「表現の自由」を語っている自分たちが恐ろしく幼稚に映っていることに気づかないのだろうか?

 

 

 

 

ものっすごいカッコワルいの気づいてないの??

板垣退助 「板垣死すとも自由は死せず」

と言った板垣さんはとってもかっこいいけど、まさかそんな事の為に自由を唱えたわけではないと思うよ。

 

 

 

 

 

クラスの他人の噂ばかりを話したがる女の子が

「A君とB子ちゃん、別れたんだって!!!しかもたった3ヶ月だよ?!すっごいよね!!」

 

と全校に言いふらした事を先生に止められて

「アタシの表現の自由はどうなるの!!!そんなこと言ったら誰も何も言えなくなるじゃない!!!」

って言ってるようなものだよ?

 

 

 

 

友達なくすよ?

 

 

 

 

そして誰も

「これで僕達はもう何も言えなくなった」とは思わないって。

たかだか離婚話の記事ぐらいで社会全体の表現の規制にはならないってば。

そもそも、コレが公人の記事なら問題にもならなかったろうし、一番弾圧されるべきであろう先生達の黒い部分の記事で規制される事もないっつの。

 

規制されたとして、それは今回の判決は関係ないって。

もっと黒い世界からの規制だってそれは。

 

 

 

きっと、こういう事を言えばマスコミも、テレビで語っている専門家の方たちも

「素人はコレだからね(´ー`)y─┛~~」とか言うのかもね。

だからね。それは別の意味で言えば

 

 

 

ものっすごい偏った見解なんだって。

皆さんもここまで読めばマヒしてるとは思いませんか?

 

 

 

 

そして、判決の理由。これもびっくり。

判決理由の骨子です

・文○の記事は前外相の長女のプライバシーを侵害し、公共性や公益を図る目的は認められない。

・表現の自由に対する重大な制約になる事前差し止めを認めるには、慎重な対応が要求される。

・記事には出版差し止めを認められなければならないほどの重大な損害を長女に与える恐れはない。

 

ね。とりあえず、私人のプライバシー侵害だってのは認めちゃってるんですよね

 

 

その上「公共性や公益を図る目的は認められない。」って
「この記事とっても低俗だよね」

って言ってるようなもんじゃん。

 

 

 

そこまで認めちゃったのに、

「記事には出版差し止めを認められなければならないほどの重大な損害を長女に与える恐れはない。」

 

 

ですって。聞きました奥様?

そりゃあね、誰かが判断しなきゃいけないし、裁判所様が「そんな大した被害ないっしょ」って判断したならそれは仕方ない。

第3者の判断なのだから、それも一つの客観性に優れた判断だといえる。「えーうっそぉ、自分に置き換えて考えてよそれ」とかものすごい言いたくなるけどそれは黙っておく。

 

 

ただ。

出版差し止めを認められなければならないほどの

これね。つまりは比較しているわけでしょ。被害の大きさを。

そうすると、

 

 

 

文芸春○>田中長女

となるってこと。

うん♪それはそうかもね^^

でもね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

んなもん、初めから書かなければ被害もないのよ?

これじゃあ、どういう意味になっちゃうかわかります?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう印刷しちまったんだからしょうがないじゃん」

って言ってるようなもんでしょ。

 

 

 

 

 

その上で

「重大な損害を長女に与える恐れはない。」

と言っちゃったからねコレ。

 

 

 

「まあまあ。離婚の記事載せられたぐらいでそう騒ぐなよ」

だから。これこう言ってるととられますよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

離婚話で最初にガタガタぬかしだしたのはどこの週刊誌さんでしたっけ?

 

 

 

 

 

それで結局。

”出版禁止号”販売せずですって。

同社によると、高裁決定で販売可能になった2万7000部は、読者や書店からの要望があれば特定の取次会社を通して販売する方針を決めていた。しかし同社広報部の話では取次からの要望がなく、当面販売を見送ることを決めたという。

同社は「当該記事のプライバシー侵害については高裁決定でも認定されており、現在係争中でもあるので、販売・出荷の停止を継続することにした」としている

 

 

ほーら。

一般の読者はそこまでしてあのような記事は求めてないんだよ。

読者に近い目線にいる書店も、店の品位を失うような雑誌は置きたくないんじゃないんですかね?

 

読者が求めてるのは先生達の黒い部分の記事ですよ

そりゃあね、「何を記事にするか」というのは出版社、編集者の自由。

それこそ「表現の自由」。

 

 

ただ、読者には

「書くべきことも書かないで、下らない記事で表現の自由を主張するなんてちゃんちゃらおかしいね」

っておもわれてるよ。

 

 

 

 

 

 

わかってるかしら???

 

 

 

 

 

 

黒い先生達相手に、勇敢にペンの力で立ち向かい「表現の自由」を語るカッコイイジャーナリストさんやライターさんを皆求めてるとおもいますよ。

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